純文学は売れなくなったし、しばらく売れないだろうけど、消えない。

phaさんのnoteから、

https://note.mu/pha/n/ne9c5bbb95115

なんで純文学がお金にならなくなっているのか考えてみた。

俺の考える純文学とは、例えば詩に典型的なものが多いんだけど、それを受けた感想として、「ちょっとなに言ってるのか分からない」となるものだ。

つまり、言葉を使っているんだけど、言葉以外のものを表現しているもの。言葉になる前の段階のもの、あるいは永久に言葉になることのないもの、それらを言葉で表現したものが、純文学だ。

この下地にあるのは、世の中には言葉では言い表せないことがあるという世界観だ。

まず世界があり。世界の中に、言葉で作られた領域と、言葉以外で作られた領域がある。

だから詩でも文書でも、言葉で言葉を表すものは、純文学のうちに入らない。純文学の純なる部分は、言葉以外のものを言葉で表そうという熱意の絶望性にある。

で、なんでこんなものが逆に今までお金になっていたかと言うと、なんとなく、社会が純文学に対して畏れを持っていたからだ。

純文学には高尚さがあり、あるだけでありがたいというか、よくわかんないけど、よくわかんないがゆえにすごいと感じる人たちがそれなりに居て、そこに経済が発生していた。

しかし、インターネットがこの構造を破壊した。

インターネットは、言葉”のみ”で構成された世界だ。検索を始めとした情報の獲得は、基本的に、言葉によってのみできる。

例えば新聞には、何かの拍子で詩などの純文学作品が載ってしまうことがあり、誰かが何かの拍子でそれを読んでしまう可能性がある。

しかし、インターネットは自分の持っているワードから入り、自分の言葉にリンクしている情報を得る仕組みだ。

言葉だけで表現された空間に言葉を探しに行き、言葉以外を表現した言葉に出会うのは、現在のグーグルの検索システムからしてほとんど不可能だ。

仮にここに、言葉以外で表したい何ものかを言葉で表現しても、それをすくい上げる仕組みがない。

インターネット以前には、それがあった。生活に、文学が自然に溶けていた。それだけの違いなんだと思う。

文学者は、ただでさえ食うのが難しい仕事だったが、その当時にあった、わずかな経済的需要さえほとんど失われてしまった。

今は皆、言葉の世界に夢中で、言葉以外の世界に関心が無いようだ。

でもみんな、そのうち飽きる。言葉だらけの世界に。

その時、詩は復興すると思う。