「生産性」を上げることは、そんなにいいことなのか

2017年、本日現在、ビジネスのトレンドは「生産性の向上」だ。

なんでも、政府が「労働時間を削減するように」というお達しを、民間企業に渡したことがこのブームの要因となっているようである。

その理由はと言うと「女性や高齢者をもっと働かせて、経済を成長させたい」とのことである。

生産性を向上させれば、男性正社員の労働時間が削減でき、その時間を使って彼らが家事や介護をこなし、もって女性や高齢者がそれらに充てていた時間を労働に振り向ける。また、雇用の機会が増える。

こういうシナリオのようである。

生産性の向上は、個人にとっても、企業にとっても、社会にとっても、とても望ましいものであるように語られているが、その前提が、実はあやしいように私は感じている。

なぜなら、そこには「何を」生産するかについての、社会的な議論と了解がないからだ。

「何を」生産するかが、人間の生活にとっては致命的であると、私は考える。

例えば、ここに10kgのコシヒカリと、10kgの鉄塊があり、そのどちらも価格が10万円であるとする(現在の相場については、この際無視する)。

どちらの物に価値を感じるか。

価値観は人それぞれであると思うが、上述のような「生産性」が問題にされる時、これらの物は等価であるとされる。

なぜなら、それらに同じ10万円という貨幣価値が付いているからである。

しかし、時と場合によって異なるだろうが、一般的な家庭が、加工も何も施されていない鉄の塊を自宅に所有しようと思うことは、何か特別な事情がない限りないと思う。

どっちかをプレゼントしてもらえるという状況なら、ほとんど全ての日本人はコシヒカリを選ぶはずだ。

でも、さっきも言った通り、国家が為す「生産」の下では、コシヒカリも鉄塊も同じ「生産物」であり、貨幣価値が等しければ、価値も等しい。

そして、現代、これも人によるが、世にあふれる物について、どーでもいいものと、致命的に大切なものがある。

俺にとって、釣り竿とラーメンは致命的に重要だが、ドッグフードとブランドバッグにはさして興味がない。

こんな感じで、「価値ある価値」と、「価値のない価値」を区別することは、こと個人の領域に至ってはそんなに難しいことではない。

でも、これを国家とか、共同体の単位でやるのは、かなり難しいのかもしれない。

それでも、この課題から逃げて、「生産性」を語ったところで、なんか虚しいと俺は感じてしまう。

この虚しさを抱えて生きている人は、結構たくさんいるんじゃないかと思うんだ。

どーでもいい物を作ったり、どーでもいいサービスをしたりすることは、結構、精神的にしんどい。

誰だって、自分にとって価値のある物に囲まれ、価値のある行動をして、価値のある人生だと振り返って死にたいものだと、俺は思っているのだが、「生産性」はそれを許してくれない。

「自分」を捨て、「価値観」を放棄し、ただ「貨幣を得よ」と、命ずる。

この命に、本当に我々は従う必要があるか。

個人的には、もうこの世には、物も、サービスも、選びきれないほどあふれていると感じている。

こんな世に、これ以上の「生産性」が必要か。

少なくとも、私には要らない。